「分からない」ということが「分かる」。その先にある「己だけのビジョン」

わたしは
「京都好き」だが

しかし
そうした
安易な言葉ですら
頭に「えせ」を付けるべきと
深く自覚している。

要は
「えせ京都好き」
ということだ。

早い話が
「ニセモノ」

もちろん
謙遜しているわけではない。

頭の中では
「神」や「仏」
空海の「密教」「曼荼羅」
「南都」から「北都」
秦氏(はたうじ)に代表される「渡来文化」
「禅」に派生する「茶道」「華道」他
諸々の単語が飛び交っている。

しかし
それらは
メビウスの輪のごとく
ぐるぐると回っているだけだ。

先日も
「密教」を50文字程度で
理解出来る文章が
何処ぞに無いものかと
ネット記事を追ったが、
全く意味不明のまま
気付いたら3時間経っていた。

分からないということが
分かった。

昨夜
浴槽から立ち上がった瞬間
ピカッと
閃いた。

例えば「茶道」!

もしかして、
形をもって形を超えることか!

我ながら
いい線いっている。

かたぐるしい作法は
全て方便であり、
学問で言うところの
「形而上」的世界に到達するための
装置でしかないのか!

そして
パチッと
電球は切れた。

エネルギー切れ。

残念ながら
CPUが
許容範囲を超えたようだ。

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