非合理を超えて その先にあるものとは . . .

前回のブログで
うさぎ跳び鍛錬について
触れた。

この動作は
現代の
スポーツ科学では
非合理と
捉えられている。

わたしも
できれば
勧めない。

反面
別の考えもある。

骨相、筋肉、腱、靭帯
その強度、バランスは
人それぞれ。

たまたま
適合する人も
あるだろう。

しかし言いたいのは
そこではない。

世間にある
様々な
非合理的鍛錬の先に

何かしら
微かな真実が
隠されているようにも
思えるのだ。

思い出すのは
猛暑の高地合宿

「水を飲むな!」
と一喝されながら
長・短距離を
繰り返した日々。

現代で言う
120%
非合理である。

第一
血流が衰え
循環酸素量は
低下し
意識も代謝力も
枯渇する。

命に支障が出て
おかしくない。

しかし
その非合理を
潜り抜ける力

火事場の馬鹿力
みたいなものが

意識を洗い出し
読み直し

己を
再構築していく力に
変換される気がして
ならない。

だが
現代においては
明らかな
暴論である。

暴論であると同時に
同じ厳しさを
追求するのであれば

「水を飲むな!」
そこでは
ないだろう。

しかるべき
別のポイントが
あるはずだ。

ただ
そうした「非合理」に
一抹の郷愁を覚えるのも
また事実である。

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