「 日々の生活 」と「 隕石の衝突 」の間に在る観念の距離

わたしたちは日々、
月極カレンダーを眺め
一生懸命生きている。

しかしその生活が
どんなに必死で
健気であろうと、
それは
地球が確固として
存在するという
大前提で営まれている。

そして
この大前提を
日頃わたしたちは
完全に忘れ去っている。

地球は
平然とあって
当たり前なのだ。

心配性なわたしはよく
大隕石が落ちてくる夢を見る。

よもや
ぶつかりはすまい…

もしコース上にあっても
誰か偉い人が撃ち落とすか
または軌道修正するに
違いない…

最初は完全に第三者だ。

しかし
時々心配になる。
その偉い人は
一体何処に居るのだろう?

ペンタゴンに居るのか、
それとも密かに
サンダーバードのような組織が
存在するのだろうか . . .
と想像する。

そして結局
天変地異に対し
人間は全く無力であることを
思い出す。

全ては
偶然の幸運の中に
存在している。

不夜城となり
天体に意識が
及びにくくなった現代。

ただただ
朦朧と
生かされているわたしたち。

宗教の視点とは
突き詰めて考えると
曼荼羅に象徴されるように
そうした
天体の偶然という領域まで
思念がおよぶか否かの
問題と思われる。

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