「動かない」ということに意味を見出す、ささやかな参拝の儀

先日も
京都を歩いた。

いつもの寺に
立ち寄る。

心の中で
仏像に
日々の礼を
述べる。

手も足も動かぬ偶像を
お参りして
何になる. . .

という人もある。

確かに
そうかもしれない。

しかし
わたしにとっては

動かず
そこに
あり続けることに
意味を見出している。

人間は
残念ながら
たちまち
飯を食わねばならない。

今日の
明日の
1ヶ月先の飯を
確保するために
せかせかと動く。

とにかく
寝てる時間以外は
じっとしていられない。

たとえ
身体は
じっとしていても
頭は
イライラと
動いている。

上下前後左右の
あらゆる
微妙な引力と
駆け引きしながら

必死に生きる。

そんな
自分だからこそ

京都に来て
常に同じ場所で
微動だにしない仏像に
意味を見出す。

仏像は
食べなくても
死にはしない。

そこにあるのは
まさに
「空」。

生きている限り
絶対に
近づけない
存在。

境地。

前回のブログでも
仏は
人間の知恵と
書いたが、

いずれ
そっちの世界へ
行くんですよね. . .

と、
教えを頂いて

ものの5分だけ
静寂の中に
身を置き、

ふふ〜ん
と、
また現実に戻る。

言葉は悪いが

京都の寺は
私にとって
欠くべからざる
装置なのだ。

Written by: